日本調剤株式会社の創業者であり、日本の調剤薬局業界のパイオニアとして知られる三津原博(みつはら ひろし)氏。
薬剤師資格を持ち、大手製薬メーカーのMR(医薬情報担当者)として働いた経験から、「患者中心の医療」と「医薬分業」の実現を使命とし、起業家へと転身しました。彼が築き上げた日本調剤は、全国47都道府県に店舗を展開する業界唯一のチェーンであり、ジェネリック医薬品事業など多角的な医療関連ビジネスの先駆けともなっています。
本記事では、三津原氏の波乱に富んだキャリアの軌跡、関連会社
の設立を通じた功績、そして最新の役職を含む現在の立ち位置について詳細に解説します。
医薬分業の実現に捧げた三津原博の経歴と初期キャリア
三津原博氏のキャリアは、一貫して日本の医療制度における薬剤師の役割の向上と医薬分業の実現という強い信念に裏打ちされています。
まずは、同氏の基本情報と、起業に至るまでの具体的なキャリアの軌跡を確認します。
三津原博氏-NIHON CHOUZAI GROUP – INTEGRATED REPORT 2024より| 名前 | 三津原 博(みつはら ひろし) |
|---|---|
| 生年月日 | 1948年6月17日 |
| 出身 | 東京都 |
| 学歴 | 昭和薬科大学薬学部 |
| 職業 | 日本調剤株式会社代表取締役会長 |
三津原氏は、当初は大学の経済学部に入学しましたが、後に中退し、改めて薬学部に進み直すという異色の経歴を持ちます。この選択の背景には、医療という専門分野で社会に貢献したいという強い思いがあったとされます。
MR時代に抱いた「医薬分業」への強い問題意識
三津原氏は、1974年に昭和薬科大学薬学部を卒業しました。卒業後、大手医薬品メーカーの武田薬品工業に入社し、MR(医薬情報担当者)として勤務します。
MRとして医療の現場で働く中で、彼は当時の医療体制における薬害の問題や、病院・製薬会社側の対応に強い憤りを感じました。この経験から、薬剤師が医師と対等な立場で処方内容を確認し、患者の安全を守る「医薬分業」の必要性を痛感しました。
この信念を胸に、同社を退職し、1980年に自らの手で日本調剤株式会社を創業することとなります。これが、彼が起業家として歩み始める、揺るぎない夢の原点となりました。
日本調剤の創業と多角的な医療事業の展開
医薬分業という社会的な使命を掲げた三津原氏は、1980年3月に日本調剤株式会社を創業(代表取締役社長就任)。困難な初期を乗り越え、関連会社設立を通じて事業を多角化し、その功績を確固たるものにしました。
創業当初の資金難と医薬分業の地道な浸透活動
起業当時、医薬分業のビジネスモデルは社会に浸透しておらず、三津原氏は銀行からの融資を得るのに大変な苦労を強いられました。
しかし、彼は諦めることなく、調剤薬局の必要性が比較的理解されやすい耳鼻咽喉科や眼科、小児科などの医療機関を地道に回って、医薬分業の意義とメリットを提案し続けました。
この粘り強い活動の結果、彼の信念に賛同する医療機関が徐々に増え、事業は成長軌道に乗ります。
事業多角化の柱:ジェネリックと情報・人材への展開
日本調剤の事業拡大に伴い、三津原氏は医薬分業を多角的にサポートする関連会社を設立・経営し、その戦略的な動きは事業基盤を強固にしています。
まず、1994年1月には、宮城日本調剤株式会社(現:株式会社メディカルリソース)の代表取締役社長に就任し、これにより調剤薬局網のエリア拡大、特に地域での存在感を高めることを推進しました。さらに、医療費削減と患者の経済的負担軽減という社会的な課題に応えるため、2005年1月には日本ジェネリック株式会社の代表取締役社長に就任し、高品質なジェネリック医薬品の製造・販売を本格的に開始しました。
また、2012年1月には株式会社日本医薬総合研究所の代表取締役社長にも就任することで、医療に関する調査研究や情報提供の部門を強化し、薬剤師や医療機関へのサポート体制を拡充しました。
これらの関連会社群は、単に薬の提供に留まらず、医薬品の製造・情報提供・人材供給といった多岐にわたる側面から医薬分業を盤石なものにするという、三津原氏の包括的な戦略を反映しています。
薬剤師の専門性向上に向けた独自の取り組み
創業以来、三津原氏は薬剤師の専門性向上を重視しており、調剤報酬改定による評価が、努力した薬剤師の給料やキャリアに反映されなければならないという考えを明確に持っていました。
この考えを実行に移す具体的な功績として、2016年には「かかりつけ薬剤師」としてのスキルアップとナレッジの社内共有を目的とした「第1回社内学術大会」を自社で開催しています。
これは、全社の薬剤師に対し、在宅・施設における服薬管理の実践報告などを通じて「一生勉強」の姿勢を奨励し、薬剤師の専門的スキルを会社全体で底上げしようという三津原氏の強い意志を反映したものです。
未来を見据えたICT戦略と「お薬手帳プラス」
三津原氏は、薬局の未来を支えるものとしてICT化にいち早く着目し、当時から情報通信技術を活用したサービスの提供にも積極的に取り組んでいます。
具体的には、スマートフォンを用いた電子お薬手帳アプリ「お薬手帳プラス」の開発と普及を進めました。
このアプリは、患者の服薬情報を一元管理し、利便性を高めるものであり、患者への医療サービスの質を向上させると同時に、薬局の業務効率化にも貢献しています。
全国チェーンの実現とリーダーシップの現在地
三津原氏のリーダーシップのもと、日本調剤は調剤薬局業界において揺るぎない地位を確立し、現在も医療業界を牽引し続けています。
業界唯一の全国展開と地域医療への貢献
日本調剤は、調剤薬局業界において唯一、全都道府県に店舗を持つチェーンである点が最大の功績です。これは、地方や過疎地も含めた全国津々浦々の人々が、経済状況や地理的な制約に関わらず、安心して質の高い薬物治療を受けられる環境を提供したいという三津原氏の強い願いを具現化したものです。
同社の出店戦略は、単に店舗数を増やすだけでなく、厚生労働省が求める「かかりつけ薬局」の機能を土台とし、さらに高度薬学管理機能や地域住民の健康サポート機能を兼ね備えた薬局づくりを推進している点に特徴があります。
この戦略を支えるため、日本調剤は、基幹病院前で専門性の高い薬剤師を配置する「門前薬局」、複数の医療機関を集積させた独自の形態である「メディカルセンター(医療モール)型」の要素を併せ持つ「ハイブリッド型薬局」、そして2016年の規制緩和以降に推進されている「敷地内薬局」の3つのスタイルを確立しています。特に門前薬局では、大学病院などの高度医療を担う機関の前で、副作用リスクの高い薬剤に対する最高レベルの服薬指導を提供し、最先端の医療の一端を担っています。
また、日本調剤は「真の医薬分業の実現」を創業理念とし、分業率100%を目指して医療機関へのコンサルティング活動も展開しています。社内に不動産鑑定士や一級建築士などの専門家を配置し、立地決定から店舗設計まで自社で完結させることで、迅速かつスムーズな出店を実現しています。
30年以上前から進めてきた独自のメディカルセンター(医療モール)開発の実績とノウハウは、地域における質の高い医療サービス提供を支援する、同社の重要な強みとなっています。地域密着型の徹底したサポート体制は、幅広い年代の患者からの信頼獲得に繋がっています。
医療制度改革への挑戦的な対応と「かかりつけ薬局」の推進
三津原氏の経営哲学は、「世間がピンチだと思っていることは、我が社にとってチャンスだ」という言葉に集約されます。彼は、2016年の調剤報酬改定のような大規模な制度改革を「不適切な薬局をふるい落とす国のメッセージ」と捉え、減収を恐れるのではなく、努力して生き残っていくという挑戦的な姿勢を全社に示しました。
具体的には、改定の方向性であった「かかりつけ薬剤師機能」「後発医薬品の使用促進」「在宅医療の推進」の3点すべてを強化すべく、テレビCMを通じた「かかりつけ薬局」の宣言など、積極的なプロモーションを展開しました。
特に、在宅医療においては、処方箋応需件数10件のうち1件が在宅訪問であったという実績を持つなど、当時から薬剤師が医師と連携して患者のベッドサイドまで伺う「薬局常駐型」ではない独自のスタイルを確立し、地域医療への貢献を深めています。
2019年の社長退任と2024年の創業者再登板
長きにわたり日本調剤を率いてきた三津原氏でしたが、2019年6月に代表取締役社長を退任し、息子である三津原庸介氏に社長の座を譲っていました。しかし、それから約5年後の2024年、経営の最前線に立つ必要が生じ、再び経営トップとして登板することとなります。
同年、庸介氏本人から健康上の理由を口実とした退任の申し出があり、これを受けて開催された取締役会では後任社長が選任されました。そして、創業者の三津原博氏が取締役会長として、5年ぶりに経営陣に復帰する人事が決定され、公表されました。
これは、市場環境の変化や経営における課題に対し、創業者が再び指揮を執る必要性が生じたことを示しています。取締役会長として復帰した三津原氏は、長年にわたり培ってきた知見と経験をもって、日本調剤グループのさらなる成長と、日本の医療制度への貢献に向けた指導力を発揮し続けています。
まとめ|三津原博氏が切り拓いた日本の調剤薬局の未来
日本調剤株式会社の創業者である三津原博氏は、武田薬品工業のMR経験を通じて抱いた医薬分業の強い使命感を原動力に、1980年の創業以来、国内トップクラスの調剤薬局チェーンを築き上げました。彼のキャリアは一貫して「患者中心の医療」という哲学に貫かれています。
事業面では、日本ジェネリック株式会社の設立や、株式会社日本医薬総合研究所を通じた情報提供、さらには電子お薬手帳アプリ「お薬手帳プラス」の開発といった多角的な戦略を展開し、調剤薬局ビジネスの枠を超えて医薬分業を盤石なものにしました。また、2016年には「第1回社内学術大会」を開催するなど、薬剤師の専門的スキル向上と生涯教育への投資を積極的に行い、企業の権威性を高めました。
三津原氏の経営哲学は「世間がピンチだと思っていることは、我が社にとってチャンスだ」という言葉に象徴されるように、常に挑戦的です。この姿勢は、2019年の社長退任を経て、市場環境の大きな変化があった2024年に取締役会長として5年ぶりに復帰するという行動にも表れており、日本調剤グループにとって彼のリーダーシップが不可欠であることを示しています。
三津原博氏の残した功績と不屈の起業家精神は、今後も日本の医療インフラにおける確固たる基盤として注目され続けるでしょう。
