技術

東原敏明(日立製作所 会長)とは?異色の経歴と「利他の心」が貫く構造改革の哲学

東原敏明(日立製作所 会長)とは?異色の経歴と「利他の心」が貫く構造改革の哲学

長年にわたり日本の総合電機メーカーの雄として君臨してきた日立製作所は、2010年代に大きな構造改革を断行し、グローバルな「社会イノベーション事業」のリーダーへと生まれ変わりました。

この大胆かつ劇的な変革を推進し、組織を率いてきた人物こそが、現在の株式会社日立製作所 取締役会長である東原敏明氏です。歴代社長の多くが東京大学出身者という中で、地方大学から日立のトップに立ち、経営の危機を乗り越えて新たな成長の道筋をつけた東原会長は、いかにしてこの巨大組織を動かしたのでしょうか。

その異色の経歴と、「利他の心」を根幹とする独自の経営哲学、そして日立を真のグローバル企業へと導いた具体的な手腕について、深く掘り下げて解説します。

東原敏明氏のプロフィールと日立でのキャリア

まずは、東原敏明氏のプロフィールを確認していきましょう。

東原敏明-ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会公式サイトより東原敏明-ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会公式サイトより
名前 東原 敏明(ひがしはら としあき)
生年月日 1955年2月16日
出身 徳島県小松島市
学歴 徳島大学工学部電気工学科
ボストン大学大学院コンピュータサイエンス学科
職業 株式会社日立製作所代表執行役会長
日立技術士会会長
公益財団法人日独協会会長
ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会会長
一般社団法人日本機械工業連合会会長
趣味 読書、ゴルフ、ミュージカル鑑賞

東原敏明氏は1955年徳島県小松島市で生まれました。小松島市は徳島市の南側に位置する小さな町で、東原氏は大学を卒業するまで徳島から出たことはなかったと語ります。ちなみに、小学生時代は少年野球のキャッチャーを務め、中高では柔道で県の個人戦で優秀な成績をおさめたそうです。

1977年に徳島大学工学部を卒業後、株式会社日立製作所に入社。東原氏の就職時期は第二次オイルショックの影響が大きく、限られた就職先のひとつが日立製作所だったようです。入社後すぐに配属された茨城県の大みか工場(現・大みか事業所)には、自身で配属希望を出し、決まりました。

大みか事業所は1969年に設立され、電力や鉄道、上下水道など社会インフラの稼働を制御する情報制御システムの開発・製造を担う日立グループの中心的な事業所です。2020年には世界経済フォーラム(WEF)から日本企業初の「先進工場(ライトハウス)」に選定されています。

入社後は長きにわたり、電力会社や鉄道会社などの社会インフラを支える制御システムの品質保証と取りまとめ業務に従事し、現場の技術とノウハウを深く体得しました。

1990年にはボストン大学大学院コンピュータサイエンス学科を修了しており、このキャリアパスが、後の経営判断における現場主義とスピード感を重視する姿勢の礎となりました。

日立の歴史を変えた「徳島大学出身の社長」という異色の経歴

旧来、日立製作所の社長職は東京大学出身者が歴任することが多い中で、東原氏が第十一代社長に就任したことは、同社の歴史において大きな転換点として注目されました。

地方大学出身でありながら、世界的な総合電機メーカーのトップに上り詰めた事実は、彼の技術者としての実力と、現場で培ってきたリーダーシップ、そして組織全体を巻き込む共感力の高さを証明しています。

取締役会長に至るまでの主要な役職変遷

東原氏のキャリアは、技術部門から経営の中枢へと段階的に進みました。2006年4月には情報・通信グループのCOOに就任し、翌2007年4月には執行役常務に昇格(2008年3月退任)するなど、経営層としての経験を積み始めます。その後、2008年4月にはHitachi Power Europe GmbHプレジデントを務め、海外での経営経験を積みました。

2010年4月に株式会社日立プラントテクノロジーの代表執行役 社長に就任するなど、国内外の子会社経営やインフラシステム部門の要職を歴任しました。2013年4月に日立製作所の執行役専務となり、全社的な経営に関与した後、2014年4月に日立製作所の代表執行役 執行役社長兼COOに就任し、日立の顔として経営のトップに立ちました。

さらに、構造改革を本格化させる中、2016年4月からは執行役社長兼CEOとして経営の責任を担いました。2021年5月に代表執行役 執行役会長兼CEOに就任した後、2022年4月からはCEOの職務を後任に譲っています。

現在は取締役会長 代表執行役として、ガバナンス強化と対外的な要職を務め、日立グループ全体の安定的な発展を支えています。

大企業病を克服した事業ポートフォリオの大変革

東原氏が社長に就任した2014年頃、日立はリーマンショック後の不採算事業整理を経たものの、依然として経済環境の変動に左右されやすい構造を抱えていました。東原氏が主導したのは、大胆な事業の「選択と集中」であり、日立グループの収益構造そのものを変える大転換でした。

「二番底の危機」を乗り越えた選択と集中

東原氏の社長就任は、前任の中西宏明社長と川村隆会長による不採算事業の大胆なリストラによって、日立の成長への土台が整った節目で行われました。当時の経営陣は、企業が世界で勝ち抜くために、50代へのバトンタッチによる経営陣の若返りを念願としていました。

就任当初、東原氏は再び経営が悪化する「二番底の危機」を覚悟し、抜本的な改革に着手しました。まず着目したのは、日立が長年抱えてきた「大企業病」の構造的な要因でした。当時の日立は、終身雇用主流の社会的な背景も相まって組織の硬直化が進み、子会社と本社の間に上下関係の意識が蔓延し、赤字に対する危機意識が希薄な体質となっていました。この体質こそが、上場子会社の業績を連結する際に当期純利益が赤字となる「見かけ上の黒字」が十数年も続く原因でした。

この問題を解決するため、東原氏は組織構造そのものにメスを入れました。2014年に社長兼COOに就任した当時は大規模な「社内カンパニー制」でしたが、業績悪化のたびに下方修正が続き、株価が大きく下がる状況が常態化していました。

そこで2016年に社長兼CEOに就任した際、組織を2000億~3000億円単位の「金融BU」「公共BU」といった「ビジネスユニット(BU)制」へ抜本的に変更しました。さらに、毎月のBU長会議に全BU長を同席させ、経営層のフィードバックを共有させることで、ガバナンスを徹底。これにより、2016年以降、年度予算に対する下方修正をなくすという明確な成果を上げました。

『日立の壁―現場力で「大企業病」に立ち向かい、世界に打って出た改革の記録』(東原 敏昭 著)『日立の壁―現場力で「大企業病」に立ち向かい、世界に打って出た改革の記録』(東原 敏昭 著)

事業面では、市場の成長が見込めない、あるいは収益性が低いと判断された事業部門について、数千億円から一兆円規模に及ぶ売却や再編を断行しました。

長年手掛けてきた祖業の一部も含まれましたが、この選択と集中によって財務体質は劇的に改善し、新たな成長分野への投資余力が生み出されました。東原氏自身、この改革の過程を『日立の壁―現場力で「大企業病」に立ち向かい、世界に打って出た改革の記録』という著書にまとめています。

「社会イノベーション事業」への舵取りとグローバル化

改革の最大の目的は、日立を「社会イノベーション事業」を中核とする真のグローバル企業へ変貌させることでした。そこで、ITとインフラ技術を融合させ、社会課題の解決を通じて収益を上げるというビジネスモデルを確立しました。

この戦略に基づき、デジタルソリューションを強化するためのM&Aを積極的に行い、特に海外市場でのプレゼンスを拡大しました。これにより、日立の事業は国内の製造業の枠を超え、世界的なデジタル・ソリューションプロバイダーへと大きく方向転換を果たしたのです。

東原敏明氏の根幹にある経営哲学

東原氏の経営手腕を支えているのは、技術者としての知識だけでなく、人間社会に対する深い洞察と揺るぎない経営哲学です。

彼は、現代のリーダーに必要な要素として、主体性、共感力、そして人を巻き込む力(包摂性)の三つを強調しています。

経営改革を支えた「傾聴力」と「修正する勇気」

東原氏は、改革を成功させるための具体的なキーワードとして「傾聴力」と「修正する勇気」の二つを強調しています。

成果を出すためには、自分とは異なる意見であっても聞く耳を持ち、「自分の意見だけが正しいわけではない」と柔軟に考えを修正できる力が経営者には不可欠だと説きます。

これは、彼が持つ「利他の心」や「共感力」が、単なる精神論ではなく、組織を最適に導くための実践的な経営スキルに基づいていることを示しています。

「利他の心」と「パーパス」に基づく経営観

東原氏の経営哲学の根幹には、創業者の言葉「正直者であれ」に通じる「利他の心」があります。

これは、日立研究所の初代所長である馬場粂夫氏が好んだ「空己唯盡孚誠(己を空しうして唯孚誠を尽くす)」という言葉にも通じています。東原氏はこの言葉を、私心を捨てて相手を思いやる「共感力」であると解釈しています。

この哲学に基づき、社長就任以降、東原氏は「良い製品があるから売りたい」という発想ではなく、まず「真っ白な気持ちで顧客の課題を聞き出す」仕事の仕方に日立全体を変えていきました。

また、東原氏は企業にとって「パーパス(存在意義)思考」が大きな推進力となると説いています。この考えの原点は、彼が日立に入社した40年以上前に遡ります。入社直後、大みか工場の工場長から作家・山本有三氏の『路傍の石』の一節「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」を引用した訓示を受け、「自分たちは何のために働くのか」という社会貢献意識を深く植え付けられました。

意思決定のスピードを重視する「現場主義」

東原氏は、グローバル競争が激化する現代において、「意思決定のスピード」を経営の最重要キーワードの一つと位置づけています。このスピードを確保するためには、経営層が自分の考えを明確にし、現場の情報を正しく理解していることが不可欠であると説いています。

長年の現場経験を持つ東原氏だからこそ、現実のビジネス環境で迅速かつ正確に実行できる判断を重視し、組織全体に即応性の高い文化を根付かせました。

彼は、日立の存在意義を具体的に実感したのは、1990年代に担当したJR東日本の東京圏コンピューター化プロジェクトであり、この時の迅速なシステム復旧への取り組みを通じて、「自分たちの仕事が社会にどう貢献しているか」という社会貢献の重要性を痛感したと語っています。

未来をデザインする「自律分散グローバル経営」の構築

日立を世界で勝ち抜く企業にするため、東原氏は、「自律分散」という概念に基づく新しいグローバル経営モデルを提唱しています。

「自律分散」モデルの構築とLumadaの役割

ここでいう自律分散とは、企業における基本的な考え方やリソースが共有され、それらがアルゴリズム(考え方)として組み込まれることで、現場の担当者が即座に判断・行動できる状態を指します。

この共通の資源をグローバルに適用するため、日立はデジタルプラットフォームである「Lumada」を共通のシステム資源とし、企業理念を世界共通の考え方として位置づけました。

日立オリジンパーク
引用:日立オリジンパーク公式サイト

東原氏は、創業者の考え方を徹底するため「日立オリジンパーク」をオープンするなど、「Go back to the origin(原点に戻る)」という行動を通じて、世界中のグループ社員に日立スピリットを共有し、「共通の資源」を定着させる活動を推進しています。

未来予測と長期デザインに基づくリーダーシップ

また、リーダーのあり方として、東原氏は「変化を捉える力」と「未来をデザインする力」を最重要視しています。変化を捉える分析手法として、政治、経済、社会、技術の要素を分析するPEST分析に「時間軸」と「地域軸」を加えることで、より具体的で実効性のある未来予測を求めています。

さらに、短期的な利益追求に偏らず、2050年の社会を長期的な視点からデザインする「バックキャスト」思考の重要性を説きます。「人間が働く場所」や「人間の幸せ」を真剣に考えたビジョンを描き、それを具体的な計画に落とし込むことが、現代のリーダーには不可欠な要素であると強調しています。

まとめ|日立の変革を支える東原会長の「主体性と共感力」

東原敏明氏のキャリアは、徳島大学出身という異色の背景から、日本の巨大企業である日立製作所の社長、そして取締役会長という重責を担い、グローバル市場で戦える企業へとその構造を根本から変革させた軌跡と言えます。

彼が主導した事業ポートフォリオの大転換は、組織の「大企業病」という本質的な問題にメスを入れ、社内カンパニー制からビジネスユニット(BU)制へと組織構造そのものを刷新することで実現しました。その改革の鍵となったのは、自分と異なる意見を聞き入れる「傾聴力」と、考えを固執せずに改める「修正する勇気」という実践的な経営哲学です。

そのリーダーシップは、創業の精神に基づいた「利他の心」と、現場への深い洞察から生まれる「共感力」に裏打ちされており、現在は「自律分散」をキーワードに、デジタルプラットフォームのLumadaと企業理念を共通資源とする「自律分散グローバル経営」の確立を目指しています。

東原氏の経営は、単なる組織改革に留まらず、PEST分析に時間・地域軸を加える未来予測や2050年からのバックキャスト思考を通じて、持続可能な社会に貢献するというパーパス(存在意義)を追求し続けています。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です