化学業界のリーディングカンパニーである三菱ケミカルホールディングス(現・三菱ケミカルグループ)の経営を長きにわたり牽引した人物、それが越智仁氏です。
京都大学大学院で化学工学を修めた後、三菱化成工業(現・三菱化学)に入社。オイルショック後の困難な時代から、グローバルな素材メーカーへと変革を遂げる過程で、常に中枢を担ってきました。
この記事では、越智氏のキャリアパス、経営哲学、そして三菱ケミカルグループが目指したイノベーションの軌跡を深掘りします。彼の歩みは、日本の素材産業の歴史そのものであり、現代のビジネスパーソンにとっても学ぶべき洞察に満ちています。
越智仁氏の初期キャリア:技術と経営戦略の融合
まずは、越智仁氏のプロフィールを見てみましょう。
越智 仁| 名前 | 越智仁(おち ひとし) |
|---|---|
| 生年月日 | 1952年10月21日 |
| 出身 | 愛媛県新居浜市 |
| 学歴 | 京都大学大学院工学研究科 |
| 職業 | 元・三菱ケミカルホールディングス株式会社(現:三菱ケミカルグループ)代表取締役社長 (2021年4月1日付で退任) |
越智仁氏は1952年10月21日、愛媛県新居浜市に生まれました。愛媛県立西条高校を卒業した後、京都大学大学院の化学工学研究科を修了し、1977年に旧三菱化成工業株式会社(のちの三菱化学株式会社)へ入社します。日本の重化学工業を支える名門企業で、彼はキャリアをスタートさせました。
彼の座右の銘は「何事にも必ず解がある」であり、この言葉が示す通り、困難な状況でも解決策を見つけ出す信念が、経営者としての彼の行動原理となっています。また、尊敬する人物として、自由闊達でアイデア豊富、かつ実行力のある坂本龍馬を挙げており、この姿勢が変革を主導した彼の経営スタイルにも通じます。
健康維持法はジム通いと昼休みのウォーキングであると述べています。
オイルショック下の現場合理化と経営の土台
入社後の越智氏は、まず三菱化成発祥の地である福岡県黒崎事業所に配属され、アンモニア課に所属しました。その後、約20年間にわたり、肥料、無機、無機化学品(以下、無機)といった分野の仕事に従事しました。
彼が30代の頃は、1970年代から80年代にかけてのオイルショックの影響で、石油化学業界全体が大きな打撃を受けていた「大変な時期」でした。この頃、アンモニア製造部門の課長代理として、作業効率の改善や要員削減といった現場の合理化に尽力しました。
この厳しい環境下での経験が、後の経営戦略の策定において、地に足の着いた判断力を養う礎となったと言えます。
三菱化学の成長を支えた高純度薬品事業と海外実績
1997年、越智氏はそれまでの肥料・無機の仕事から、半導体製造過程で使う高純度な薬品を製造する工場の立ち上げ業務へと突然異動します。配属先は、当時半導体不況の逆風が吹いていた、アメリカ・テキサス州の工場でした。
当時、高純度薬品の市場はすでに韓国企業や日米の住友化学などが独占しており、後発である三菱化学には参入する余地がないとされていました。しかし越智氏は、持ち前の粘り強い交渉力と、サムスンの電子部門と議論を重ね、契約を続行。
その結果、三菱化学は高純度薬品の分野で他社を圧倒するほどの成長を遂げる土台を作ることができたと言われています。この海外でのタフな経験が、彼の専門性と実務能力を強く裏付けました。
MCHC復帰と三菱レイヨン買収戦略への参画
海外での実績を上げた越智氏は、帰国後、グループ再編という難しい役割を担います。彼は、入社以来携わってきた肥料、無機、無機化学品事業の中で、アンモニアプラントや尿素事業の閉鎖といった、事業の再編と分離を断行しました。
アンモニアプラントや尿素事業は彼が入社後から携わってきた事業だったため、「寂しさはあった」とも語っています。しかし、感傷を排してこの決断を下し、赤字を垂れ流していた事業から撤退することで、3年かけて利益を確保するまでの合理化を成し遂げました。この再編業務を通じて、彼は子会社である日本化成の取締役を務め、事業再生の道筋をつけました。
この時点で、三菱化学でのキャリアは終わったと解釈していた越智氏でしたが、2007年5月、小林喜光社長(当時)から声がかかり、三菱ケミカルホールディングス(MCHC)への復帰と、経営戦略担当執行役員という極秘の重要ポストを託されることになります。
この復帰は、MCHCが当時極秘に進めていた三菱レイヨン買収計画という、売上4700億円を誇るグループ内最大級の企業を傘下に収めるための戦略の中核を担うことでした。
三菱ケミカルHDトップとしての実績と変革の歴史
越智氏は、三菱グループ内の再編と統合が加速する中で、重要なポストを歴任し、その権威性と専門性を確立していきます。
MCHC設立後のグループ経営における役割
2005年、三菱化学と三菱ウェルフェーマ株式会社が株式移転により株式会社三菱ケミカルホールディングス(MCHC)を設立。
この新体制の設立後、越智氏は2009年4月にMCHCの取締役に就任し、グループ全体の経営に深く関わることになります。
三菱レイヨン社長時代に発揮した経営手腕
2012年4月には、三菱ケミカルグループ傘下の大手合成繊維・合成樹脂メーカーである三菱レイヨン株式会社の代表取締役社長に就任しました(2018年3月まで)。
三菱レイヨンは、化成品、樹脂、炭素繊維、アクアソリューションなど多岐にわたる素材開発を事業の中心としており、ここで越智氏は経営者としての手腕を遺憾なく発揮しました。
越智仁氏がMCHC社長に就任:KAITEKI経営の推進
そして2015年4月、越智氏は三菱ケミカルホールディングスの取締役社長に就任し、同年6月から取締役兼代表執行役社長を務めました。
MCHCは、三菱化学や三菱レイヨンの他、田辺三菱製薬、三菱樹脂などを傘下に収め、ヘルスケア、高機能素材、産業ガスといった多様な事業を展開する巨大コングロマリットです。
彼はこの巨大グループのトップとして、素材とヘルスケアを核とする「KAITEKI経営」を推進し、持続的な成長と社会課題の解決を目指す変革を主導しました。
越智仁氏の「KAITEKI経営」哲学とイノベーション戦略
越智氏の経営者としての経験と洞察は、いくつかの明確な哲学に裏打ちされています。
特に、社会課題の解決と企業の持続的成長を両立させる「KAITEKI経営」と、それを実現するためのデジタル技術の戦略的活用に関して、彼独自の強い信念が見られます。
KAITEKI経営の核心:「社員の健康」と「ジョブ型」への変革
越智氏が掲げるKAITEKI経営とは、「個人(社員)の健康」と「働き方改革」を重要な二つの車輪として捉え、推進する取り組みです。特に新型コロナウイルス感染症の拡大は、この経営思想の意義を改めて示し、変化を契機として推進する必要性を強調しました。
彼は、従来の制度や慣習を見直し、独自の「ジョブ型」制度への変革を推進しました。これは、欧米型の制度をそのまま導入するのではなく、従業員の向上心と仕事への満足度を高めることに主眼を置いています。
個々人の健康と、一人ひとりの多様性を生かし、活力を生み出す職場づくりこそが、KAITEKI経営の核であるとしました。
KAITEKI経営実現のためのデジタル技術(DX)戦略
越智氏は、デジタル技術の導入を単なる業務効率化としてではなく、三菱ケミカルグループの根幹であるKAITEKI経営を実践し、社会に貢献するための重要な手段と位置づけていました。
彼は、AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)といった技術を活用することで、これまでの事業では手が届かなかった領域での社会貢献が可能になると考えています。具体的には、デジタル技術を用いて「遠隔医療」を実現したり、遠隔でも「住まいやケアを分け隔てなく供給」したりすることが挙げられます。
これにより、日本の最先端技術を持つ企業として、社会全体の質の向上に貢献できるという強い信念を持っています。
MCHCの未来像「KAITEKI Vision 30」と価値基準
越智氏は、2030年にあるべき姿を定めた中期的な経営戦略「KAITEKI Vision 30」(KV30)を策定しました。このビジョンを基盤とした2021〜2025年度の新たな中期経営計画を推進しました。当初の2年間はコロナ禍によるダメージの回復と、事業成長のための経営基盤強化に重点を置いています。
この戦略の実現に向けて、三菱ケミカルグループは「人、社会、そして地球の心地よさ」を追求した独自の価値基準を定めました。これは、Sustainability(持続可能性)、Health(健康)、Comfort(快適性)を核とするもので、グローバルなイノベーションを通じて、持続可能なソリューションを提供していくという強い決意を反映しています。
さらに、ジョンマーク・ギルソン氏を新たな社長として迎えるなど、海外からの知見やリーダーシップを取り込み、グループとして成長していくことを期待していました。
「デジタル・オフィサー」設置に見る徹底した文化変革
越智氏が推進したデジタル化は、働き方や企業文化そのものにも変革を求めました。
彼は、日々の進化するデジタル技術をいかに経営に取り込むかを、大きな課題として捉えていました。2017年4月には役員経験者を最高責任者とする「デジタル・オフィサー」を設置し、外部からの新たな視点を積極的に取り入れました。そして、デジタルによってプロセス、人事、経理などのシステムを全て変えるという、徹底的かつ全域にわたる改革を実行に移しました。
このデジタル変革を通じて、彼はデジタル前提の新しい働き方を設計しました。時間や場所に縛られず、社員一人ひとりが持つ知恵や能力を最大限に発揮できる環境を整えたいという考えです。
自宅や地方でも働けるように整備し、通勤による環境負荷やエネルギー効率の改善にもつなげられると強調しました。彼は、これらの変革を、社員が抱く「こうすれば、もっと良くなるのに」という夢や発想を実現するためのデジタル・トランスフォーメーション(DX)であると定義し、それを企業成長のエネルギーに変えようとしました。
化学メーカーの責務:プラスチック問題への取り組み
化学メーカーのトップとして、環境問題、特にプラスチックの海洋汚染問題に対しても強い責任感を表明していました。
彼は、プラスチックが生活空間の向上に貢献してきた側面を認めつつも、その廃棄物管理については「深く反省しなければならない」と述べています。そして、この問題の解決を「化学メーカーの果たすべき責務」と捉え、技術力をもって解決策を探る姿勢を示しました。これは、KAITEKI経営が掲げる「社会の持続可能性」を具体的に実践する姿勢を示しています。
ドラッカーから学んだマネジメントと未来のイノベーター育成
越智氏の経営者としての哲学の根幹には、ピーター・ドラッカーの思想があります。彼は、事業部長への配属転換を機にドラッカーの著書『マネジメント』を手に取り、これを熟読したと述べています。
この本が、組織を動かす管理職としての頭の整理をする上で非常に役立ったと言います。彼は『マネジメント』を通じて、マネジャーの役割や経営の理念、コンプライアンスといった、マネジメントの本質的な要素を学び取りました。
さらに越智氏は、CSR(企業の社会的責任)の重要性を深く認識していました。彼が関連書籍を読み進める中でたどり着いた結論は、「CSRとは事業を通じて社会の問題を解決することであり、企業の義務である」というものでした。つまり、CSRは経営そのものの一部であり、単なる社会貢献活動ではなく、企業の存続に不可欠なものだと考えていたのです。
また、越智氏は、将来のイノベーションの担い手である子供たちに夢を与えることが、良きイノベーターを育成する王道であるという考えを持っており、企業が社会に対して持つ責任と未来への投資という彼の哲学を体現しています。
独自考察:越智仁氏のキャリアから読み解く「変革の原理」
越智仁氏が三菱ケミカルグループを率いて推進した変革の道のりは、単なる企業戦略ではなく、彼のキャリアを通じて培われた独自の思考原理に基づいていると考えられます。
ここでは、複数の公開資料やインタビューを参考に、彼の経営の核となった三つの「変革の原理」を紹介していきたいと思います。
1. 現場の難局から生まれた「解決志向」の絶対性
越智氏の経営は、常に「何事にも必ず解がある」という絶対的な解決志向に貫かれています。これは、彼が30代で経験したオイルショック後のアンモニア事業の合理化や、後発として成功が難しいとされたアメリカでの高純度薬品ビジネスの立ち上げといった、極めて困難な現場での実務経験が土台となっています。
彼は、組織の硬直化や前例主義といった「現状」を、「まだ解決されていない問題が山積している状態」として前向きに捉え直しました。この信念こそが、長年携わった事業からの撤退という「孤立無援の決断」を可能にし、さらには全システムを刷新する大規模なDX戦略を推進するエネルギー源となったと考察されます。
2. 「企業の義務」としての社会貢献と新しい信頼の定義
ドラッカー哲学から深く学んだ彼は、CSR(企業の社会的責任)を「事業を通じて社会の問題を解決すること」と捉え、倫理、環境、サステナビリティといったテーマを、株主への配慮を超えた顧客や地域社会との「信頼構築の基盤」と位置づけました。
彼は、多くの企業が株主(IR)に偏重するあまり、顧客や一般社会へのコミュニケーションが不足していると指摘。企業が活動を積極的に開示し、未来の担い手である子供たちに夢を与えることまでが、持続的な成長に必要な戦略的コミュニケーションであると分析していたことがわかります。
3. 「人の知恵」を最大化する人間中心の職場設計
彼の組織論は、「人の知恵が最も価値を生む」という徹底した人間中心主義に基づいています。越智氏が推進したDX戦略は、決してコスト削減が目的ではなく、デジタル技術によって時間や場所の制約を取り払い、社員一人ひとりの能力と知恵を最大化させるための環境整備に主眼が置かれていました。
彼は、「40代以上の固定観念」が組織の活力を阻害していると明確に指摘し、「アクティブシンキング」による意識改革と、多様な人材(女性、若手など)の能力が活かされる「ジョブ型」への移行を断行しました。さらに、ジム通いやウォーキングを自ら実践・開示することで、社員の健康と快適性を、企業の成長に不可欠な経営テーマとして組織全体に浸透させたのです。
まとめ|越智仁氏が確立した「KAITEKI経営」と変革の軌跡
越智仁氏は、1977年に三菱化成工業に入社して以来、日本の重化学工業がグローバルな素材・ヘルスケアコングロマリットへと変貌を遂げる道のりを主導した、豊富な経験と確固たる権威に裏打ちされた経営者です。
彼の経営哲学は、企業価値と社会の持続可能性を両立させる「KAITEKI経営」に集約されています。彼は、社員の「健康」と「働き方改革」を核とした「ジョブ型」への移行や、「デジタル・オフィサー」を設置しての全システム変革を断行。AIやIoTといったデジタル技術を、社会貢献(遠隔医療など)のためのツールとして戦略的に活用する道筋を示しました。
越智氏の歩みは、困難な時代を乗り越えて日本企業のイノベーションを推進し、現代の持続可能な社会を追求する経営の模範として、今なお多くのビジネスパーソンに洞察を与え続けています。
